中国留学へのターニングポイントは人それぞれ。
中国留学経験者へのインタビューを通して、様々な留学体験と帰国後の進路・就職等をご紹介します。
今回は你会メンバーでもある、小田玲実さんのインタビューです。
小田さんの大学の専攻は理系、中国語がほとんどできないまま留学したのはなぜだったのか?どうやって勉強したのか?などに迫ります。
本記事は「理系・中国語ほぼゼロからの中国留学~いざ留学へ~(2/3)」からの続きです。
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プロフィール
小田 玲実(こだ れみ)。北海道出身。
農学系大学卒業後、中国北京市の首都師範大学に2年間留学。帰国後は高校や企業で中国語講師をしながら、大学院で中国内モンゴルの砂漠化について研究。
現在、大学中国語非常勤講師、你会エグゼクティブアドバイザー、千葉県日中友好協会青年委員会代表、日本青年国際交流機構中国担当幹事。
大学院での中国との関わりかた
―帰国後大学院に進学。中国のことが研究できるなら、これまでの経験がつながりそうですね。
母校の大学ではもともと内モンゴルに協定校と、郊外の村にフィールドもあって、先生方はそこをずっと訪問したかったそうです。でも、中国語通訳をできる人がいなくなって、なかなか行けなかった。そこに私がのこのこ現れたというわけです(笑)。5月に早速先生が内モンゴル研修をやるというので、通訳として同行させてもらいました。その後も毎年先生が学生を連れて内モンゴルに行く際は、通訳として同行し、ついでに自分の調査もしていました。
内モンゴルの研修はその後正式な実習科目になり、私はいま母校の非常勤講師としてその科目を担当しています。
―理系の大学院生というと大変そうですが、どうだったんですか?
大変でしたね(笑)。忙しかったので、そう自由にアルバイトもできない。でも、私はたまたま知人からのお声がけで、公立高校で中国語の非常勤講師をすることになり、その時間だけはなんとか確保して出勤していました。
自分の研究だけじゃなく、研究室の後輩の面倒を見たりということもあるんですが、私の場合は、中華圏の留学生や研究のために来る先生のサポートをすることが多かったです。大陸だけではなく、マレーシア華人や台湾人などもいて、ひとくちに中国語や中華系と言っても、様々な表現や文化があることを知りました。それと、先生のやっている国際ボランティアサークルにもサポートとして入り、研究室や学部を越えた後輩ができました。
―では、帰国後も中国語を使う機会は多かった?
いえ、やはり中国語を使う機会としてはガクッと減りました。それで、中国語を使える学外での活動も探しました。札幌で「中国国際映画祭」が開催されたときは、知人の紹介で事務局に参加し、諸手配から通訳と奔走しました。中国から招いた映画監督や俳優さんと話すときは、この上なく緊張しました。このときに札幌にいる中国関係者の方とたくさんつながることができました。そのご縁で、企業での中国語講師や翻訳のお仕事もいただいていました。
とはいえ、大学院生ともなると英語も必要になってきて、中国語ができるだけでは通用しないという現実も思い知らされました。
―大嫌いだった英語を、いよいよまた?
そうなんです。私の研究室の研究フィールドは中国だけではなく、マレーシアやフィリピンにもあって。それからJICAの技術研修生も受け入れていたので、中南米やアフリカなどの方も出入りしていました。マレーシアには華人以外の人ももちろんいますし。大学院生に英語が必要ということをすっかり忘れて大学院に入ってしまったんです。痛恨のミス(笑)。
最悪だと思いながら恐る恐る英語をしゃべりました。ところが、しゃべってみると、思っていたより普通に話せる。あれ?と思いました。
不思議に思って考えてみたのですが、中国語を話せるようになったことで、「外国語を話すセンス」みたいなものが備わっていたのかなと。昔だったら、英語というだけでどこか身構えていたし、「1文きちんと組み立てないと」「間違っていたらどうしよう、恥ずかしい」と考えていたと思います。でも、中国留学の中で、とりあえず単語を並べただけでも、文法の多少の間違いがあっても通じるということを実感として分かっていたので、英語でもそうするようになっていたのかな。
例えば、「Are you Japanese?」と聞かれて、教科書どおりの答えだと「Yes, I am Japanese.」だけど、本当は「Ya.」とか「Yes.」だけでもいいわけですよね。そういう感覚かなと。
あと、言い換え力も日本では備わらなかったかも。例えば「ポテトチップス」という単語を知らなくても、「じゃがいも」「薄切り」「揚げる」あたりの単語を知っていれば伝わる可能性が高い。難しい単語を思い出せなくて会話がストップするより、連想ゲームみたいに単語を並べるだけでも、会話が止まらないのでずっといいですよね。
中国なんか特に、中国の方たちが容赦なくしゃべってくるし、でもこっちがどんなにめちゃくちゃに話しても、汲んでくれたり言い直してくれた。あれは鍛えられたし、教えてもらったことがたくさんある。やっぱり中国に行ってよかったと思いました。
言語がいくつかできる人から、よく「外国語は1つマスターするとそのあとは早い」と言われていましたが、ようやく「ああ、こういうことか」と実感しました。
だから、私と同じように英語が苦手という人がいれば、まずなにかハマる言語を1つマスターすれば、英語の苦手意識がなくなるかも。特に中国留学は中国人とたくさん話せるので、おすすめです(笑)。
―中国語をやったことで、そんな効果が!大学院生活では、中国語と英語どちらを使うことが多かったですか?
私の場合は、結局中国語でしたかね。使う機会も探していたし、学内でしゃべれる日本人が少なかったので、ニーズもあったという感じです。でも、研究者としてはやはり英語ができたほうがよくて、国際学会に論文を出したりする人は英語がマストでした。
私はマレーシアやフィリピンに数週間滞在するという機会が何度もあったので、しゃべりの方はわりとできるようになったのですが、やはり文章を書いたりというのは難しかったですね。
私の研究は衛星画像を利用して地表の植物の有無などを解析し、内モンゴルの砂漠化の進行具合などを算出するものだったので、航空宇宙学にも関心がありました。「国際宇宙会議(IAC)」という毎年世界各国で開催される学会に学生を派遣してくれるプログラムをJAXAがやっていて、それに参加してみたかったんですが、英語がマスト。2013年が北京開催だったので、どうしても行きたくて、先生方にも「絶対無理でしょ」と言われながら応募しました。面接の際の英語は相当ひどかったんですが、あとでスタッフの方に、「英語はひどかったけど、中国語ができる人も入れておこうという判断だった」と言われ、中国語のおかげで滑り込めていたことが判明しました(笑)。ダメ元で応募してみてよかったです。ここで出会った仲間はみんな地域も専門も違うんですが、「宇宙」というキーワードだけでつながって、未だに定期的に集まっています。不思議な出会いですね。
―いろいろチャレンジしていたんですね。他にもなにか外部のプログラムなどに参加されていたんでしょうか。
内閣府青年国際交流事業の中国派遣団の渉外(通訳)として、2回中国に行きました。事業参加後、前述のOB団体でずっと活動を続けていて、帰国後は北海道支部の代表もしていました。そうした実績が認められ、お誘いをいただいたんです。
自分の経験を団員に伝えるほうの立場になり、気を引き締めて挑みました。大学で通訳をすることは多々ありましたが、こういう公式プログラムのちゃんとした通訳というのは実は未経験。通訳がどうあるべきかということも含め、勉強になりました。
中国側で受入をしてくれる政府機関があって、私が通訳として行ったときの担当者は、私が北海道で受け入れをしたときに通訳として同行していた方。留学時代にもお世話になっていたので、久々に再会し、通訳として成長した姿を見てもらうことができました。私がまだ中国語もできない団員だったときの担当者も、担当を異動していたのに、私がついに通訳になったというのでわざわざ会いに来てくれました。本当に嬉しかったです。
―それは嬉しいですね。内閣府事業は、参加後もそうしたチャンスがあるんですね。
そうなんです。それも魅力の1つかなと思います。参加して終わりじゃなく、関わり続けられるので。
そんな感じで、大学院生活でも相変わらず課外活動をたくさんやっていました。
修士号は取ったんですが、博士課程では、中国での現地調査の許可がなかなかおりないなど、中国ならではの難しさに直面しました。環境地理学的な分野だったので、やはり土地の調査や、砂漠化の定量化は中国側にとって都合のいいことではないでしょうから。
論文も書けず、プレッシャーだけがかかり、心が折れてしまって。それで博士課程は単位取得退学しました。でも大学院に在籍した5年間で、博士号を取れなくても得られたものがたくさんあったので、よしとします。
中国語を学んだことで、他のアジアの国にも目を向けた
―では、その後は就職したんですか?
実は、結婚して、夫の転勤先の愛知県に行きました。ちょうど大学院もやめて家を引き払おうと思ったので、タイミングがよかったんです。ちなみに夫は私の留学中に中国研修に来た最初の学生のうちの1人です。どこで縁がつながるかわかりませんね(笑)。
それと、私には愛知に行きたい理由もあって。愛知の大学って、中国関係に強いところが多いと聞いていたので、愛知の大学で中国語や中国文化などの授業を受けてみたかったんです。中国時代の知人からもらった翻訳などの仕事を在宅でしながら、科目等履修生で大学に通いました。特に近代アジア史と中国文学史の授業が面白かったです。
それから、マレーシアやフィリピンに行くうちに東南アジアにも興味がわき、東南アジアに関われることもしてみたいなと思っていました。
内閣府青年国際交流事業には「東南アジア青年の船」という日本とASEANの青年が大型客船で共同生活をしながら東南アジアを訪問するプログラムがあって、そのプログラム期間だけのスタッフの公募があったんです。ずっと興味があったので、応募してスタッフとして参加できることになりました。
約2ヶ月ほどの仕事でしたが、プログラムの公用語は英語。英語を使う仕事でもやってみようと思えるくらいには、英語アレルギーが解消していたんです。自分でも驚きでした。プログラム中わからないこともあったのですが、他のスタッフに助けてもらいながら、どうにか食らいつきました。ここで頑張れないとだめだと思ったのもあります。華人の参加者とは中国語で話したりもしましたけど(笑)。
―すごいですね!偶然の中国語スタートから、ここまで影響があるものなんですね。
びっくりしますよね。英語嫌いだった頃の自分に教えてあげたいですね、将来英語でも仕事するよって(笑)。
―その仕事を終えたあとは?
その後夫が東京に転勤になり、私も東京で内閣府事業などの国際交流プログラムを運営している団体に就職しました。中国を担当し、今度は運営側として、中国派遣団に参加する団員のみなさんのサポートをしていましたが、新型コロナウイルスの影響で国際交流系のプログラムはみなオンラインになるなど、中国語を使う機会が大きく減ってしまったので、2021年春に思い切って転職しました。
現在は、大学などで中国語の非常勤講師をしています。
せっかく東京にいるので、チャンスを無駄にしないよう、ここでもいろいろやろうと奮闘中です。
内閣府事業のOB会である日本青年国際交流機構では、中国担当の役員をしています。
また、千葉県日中友好協会にも参加し、大学生訪中団の随行などもさせてもらいました。現在は青年委員会の代表をしています。
―現在も中国と関わりながらいろいろやっているんですね。これからも中国とは関わり続けたいと思っていますか?
はい、やっぱり自分に自信をくれたのは中国語であり、中国です。人生を変えるきっかけをくれた中国には、これからも恩返しをしていきたいですね。
今後もしとてつもなく魅力的な中国語を使わない仕事があって、それに就いたとしても、日中友好協会などプライベートで関わる機会は絶やさないと思います。
内閣府事業の仕事をしていたとき、中国青年代表団の同行で地方視察に行った際、函館での面会者の名前が、見たことのある名前だったんです。でも中国人の名前ですごく珍しいというものでもなかったので、同姓同名かな?とも思っていたんですが、実際に行ってみると、彼女は私の知っている人でした。子供の頃の私にストレートな疑問を投げかけ、私に将来について考えるきっかけをくれた、あの中国人留学生の女性です。彼女も同行者の私の名前を見て、私かもと思っていたそうです。まさかもう一度会えるなんて思ってもおらず、感動の再会でした。ちゃんと続けていると、こういうこともあるんだと実感しました。
―その方と再会できたんですね!縁を感じますね。
中国では古い友人でも大切にしてくれますし、こういうことがあるから草の根の交流はやめられないなと思います。これからもたくさん中国とつながっていきたいですね。
―では最後に、読者にメッセージを!
中国は、噛めば噛むほど味が出る、知れば知るほど魅力的な国です。私はスタートが遅かったんですが、あのとき思い切って飛び込んで本当によかったと思っています。目まぐるしく変化する中国、まだまだ知らないこともたくさんあるので、これからも中国について勉強を続けていきたいです。
中国は「二面性」のある国です。表と裏が必ずある。中国を深く知りたいと思っている方は、ぜひ国などの公式プログラムと、留学や民間団体の交流プログラムなど、どちらも参加して、いろいろな視点で中国を見られるようになってほしいです。
中国語をはじめてみたい方、留学準備をしたい方、ぜひ私たち你会にご相談ください!
你会では、中国留学を希望するみなさんに、中国語講座・マナー講座、留学前研修、留学サポートなどを行っています。