中国の半年間の隔離生活を経て気づいたこと

1年前、私は世界がこのような状態になっていることは予想できるはずがなかった。

2020年1月26日、新型コロナウィルス感染症の流行に伴い、中国人学生、留学生を問わず、大学の外に出ることが禁止された。この状態は私が帰国するまで続き、私が後期、中国で大学以外の場所へ行ったのは、北京市内の病院へPCR検査を受けに行った1日、帰国するために北京から上海へ移動し、上海から日本へ向かう飛行機に乗るまでの4日の計5日であった。

約半年間の隔離生活を経て気づいたこと

上記の通り私は1月25日から隔離生活が始まり、帰国後2週間の隔離が終了したのは7月15日であった。途中5日間の自由はあったが、私は約半年間隔離生活を送っていた。私たちは半径1,2kmほどの空間で、食事は1つの机につき2人、スポーツは3人まで、キッチンの使用も3人まで、シャワー室の使用は2人までで、他の人の部屋に入ることは禁止されていた。大学の敷地内はスーパーマーケットと床屋が1つ、食堂が3つ営業していた(6月、新型コロナウィルス感染症の再流行によりスーパーマーケットと床屋は閉鎖されたが)。

最初の2,3ヶ月は何も問題が発生することもなく、私は多くの時間を勉強に使うことができるとポジティブに考えていた。他の留学生からも異常は感じなかった。しかし6月に入ってから状況が一変した。ある留学生が先生に対して今の生活の不満をぶつけたところ、他の留学生なども「ギブアップ。」、「ここは監獄のようだ。」などと先生に自分の思いをぶつけていた。

私は直接先生に言うことはなかったが、5月頃から、人と話す機会が少なく制限が多い今の生活に窮屈さを感じていた。今までこのように制限された空間で数ヶ月間も過ごすことがなかったので、後期の生活を通して、人間が社会から離れた空間で過ごすことは2,3ヶ月が限界かもしれないと感じた。

新型コロナウィルス感染症の再流行に伴い振り回されての帰国

私が1年間の留学の中で最も焦っていたのが6月である。北京市内では4月から2ヶ月ほど新型コロナウィルスの新規感染者数は0人であった。しかし、6月10日ほどから再流行し始め、北京市内の各地区では感染状況に応じて、「低リスク地区」、「中リスク地区」、「高リスク地区」に分けられた。

私はもともと6月29日に上海へ移動し、6月30日の飛行機で帰国する予定だったが、北京―上海間の飛行機が続々とキャンセルされ、その頃から帰国できるか不安になり始めていた(結局3回ほどキャンセルになった。)。その後も、北京市内の状況は悪化し続け、6月中旬、北京市から他の都市へ移動する際はPCR検査の陰性証明が必要になり、中リスク地区や高リスク地区から移動する際は2週間の隔離を必要とする都市もあった。

私が住んでいた地区は中リスク地区に指定されており、上海市は高リスク地区から来た場合は2週間の隔離が必要であった。さらに、航空会社に問い合わせた結果、もし隔離が必要になった際、上海―日本の飛行機のキャンセル料は無料にはならないと返事が来た(当時、中国―日本間は1日1往復で、航空券は平時の3,4倍ほど)。そのため、私は住んでいる地区が高リスク地区に指定されるか、上海市が中リスク地区から来た場合も2週間の隔離が必要と決定する前に上海へ移動しようと決意した。しかし、PCR検査ができる病院は98カ所あったが、5日間ほど予約が全て埋まっていて、予約できなかった。結局、北京市内でPCR検査ができる病院が124カ所に増えたことで予約できた。そこから毎日住んでいる地区が高リスク地区に指定されないことを祈りながら過ごし、6月27日、無事上海へ移動することができ、30日に日本へ帰国することができた。

帰国して1ヶ月ほど経過したが、日本でも依然として新型コロナウィルス感染症の影響により、以前のような生活は送れていない。このような特殊な状況を中国で過ごせたことは自分にとって貴重な経験になった。このような機会をくださった全ての関係者様にはこころから感謝している。(小川一馬 北方工業大学 2019年)

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Ryohei ISHIZUKA京都府日中友好協会 青年委員会青年委員長
日本の最大手通信キャリアに勤務の後、中国系通信キャリアの日本法人に転職。現在は企業向けのグローバル人材育成を支援する会社でコンサルタントとして勤務。 また、若者のキャリア構築に関心があり、勉強している認知科学を応用したコーチング理論を勉強しており、これまで延べ100名以上のキャリアサポートを行なった実績があります。 内閣府主催「日本・中国青年親善交流」事業における2020~2023年研修講師を担当。2024年には日本・中国青年親善交流事業に参加。