理系・中国語ほぼゼロからの中国留学~いざ留学へ~(2/3)

中国留学へのターニングポイントは人それぞれ。
中国留学経験者へのインタビューを通して、様々な留学体験と帰国後の進路・就職等をご紹介します。

今回は你会メンバーでもある、小田玲実さんのインタビューです。

小田さんの大学の専攻は理系、中国語がほとんどできないまま留学したのはなぜだったのか?どうやって勉強したのか?などに迫ります。

本記事は「理系・中国語ほぼゼロからの中国留学~なぜ中国留学に?~(1/3)」からの続きです。

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プロフィール

小田 玲実(こだ れみ)。北海道出身。

農学系大学卒業後、中国北京市の首都師範大学に2年間留学。帰国後は高校や企業で中国語講師をしながら、大学院で中国内モンゴルの砂漠化について研究。

現在、大学中国語非常勤講師、你会エグゼクティブアドバイザー、千葉県日中友好協会青年委員会代表、日本青年国際交流機構中国担当幹事。

いざ留学、準備しておけばよかったことがたくさんあった

―留学先はどのように選んだのですか?

まず、広い中国から都市を選ぶとなったときに、やっぱり首都に住んでみたいなと思ったんです。それまでずっと北海道で、東京はあまり住もうとは思わないし、これからも大好きな北海道に住みたい。じゃあ一生に一回くらい首都に住んでみようと(笑)。それに、中国語の標準語っていわゆる「北京語」ですよね。上海とかで訛ってしまうのもなあと思い、まずは標準語でいこうと。そのときは知らなかったんですが、結局北京も「r化」という訛りがあったんですけどね(笑)。
で、まずエリアを北京に絞って、中国語の先生にいくつかおすすめの語学留学ができる大学を教えてもらいました。中国派遣団のときの友人がたまたま北京留学中で、有名で大きな大学は日本人が多くて、寮で日本人と同室になってしまったり、日本人との人間関係が大変と聞いていたので、私は日本人の少ない大学にしたかった。そこで先生おすすめの大学の日本人在籍者数をインターネットで調べて、その中でいちばん日本人が少ない大学にしました。首都師範大学というところです。

―なるほど、そういう選び方だったんですね。手続きはどのように?

中国語もできなかったので、エージェントに依頼して大学への事前連絡と、最初のビザだけお願いしました。留学費用も自費でした。
でも、あとで知ったんですが奨学金には生活費をくれるものまであるようで、ちゃんと調べずもったいないことをしたと思っています。

―それはもったいなかったですね。実際に渡航したときは手続きのサポートはあったんですか?

いえ、渡航のときは1人でした。今考えると、よくたどり着きましたよね。空港に着いてタクシーに乗って、首都師範大学、って簡体字で書いたメモを運転手さんに見せて、というレベルです。あとで知ったんですが、首都師範大学って校区がいくつかあって、留学生の校舎と寮はメインの校区になかった。でも大学名だけ見せたので、運転手さんはメインの校区に行くわけです。門の守衛さんに留学の書類を見せるんですけど、どうやらここではないらしい。私にガーッと喋ってくるんですが聞き取れず、運転手さんに何かを伝えるとタクシーが走り出す。時間ももう夜だったんで、めちゃくちゃ怖かったです。
ようやく寮らしきところにたどり着いたんですが、今度は寮のフロントの人が中国語しかできない。書類を見せたけど、聞かれることに答えられないから、盛大に溜息をつかれる。最終的にどこかに電話をかけはじめて、しばらくすると、日本人の人がロビーに降りてきてくれて、通訳をしてくれました。大学院生の方でした。そのあと食事の場所もわからないでしょうと、夕食にも付き合ってくれ、本当に助かりました。
入学手続きは、たまたま事務に日本語を話せる方がいたので、スムーズにできました。
ルームメイトはタイ人の子だったのですが、私は英語もあまりできず、最初はコミュニケーションが上手く取れずに申し訳なかったです。最初の1週間くらいは、自分の無謀さをちょっと後悔したりもしました。せめて手続きに必要そうな言葉は指差しできるようにメモしておけばよかった。完全に準備不足でしたね。

―無事たどり着いてよかったですね。クラス分けなどはどのようにされたんですか?

レベルチェックのテストを受けさせられたんですが、どうやら閲読(リーディング)の点数が良かったみたいで、最初中級クラスに入れられたんです。日本人は漢字が読めるから自然と閲読だけはできる。でも聴力(ヒアリング)と口語(スピーキング)がぜんぜんできないから、中国語で進む授業にまったくついていけず、すぐに初級クラスに変えてもらいました。
クラスにはインドネシア、タイ、シンガポール、ロシアと様々な国の留学生がいました。みんなどんどん質問するので、わからないことも聞きやすかったです。

―授業は毎日ですか?

はい、毎日でしたが、初級クラスは午前中だけ。8~12時までで、1日2科目でした。
でも、どの科目も毎日しっかり宿題が出るし、小テストもたくさんある。最初の頃はついていくのもやっとだったので、午後は宿題や復習をしてました。

―寮生活はどうでしたか?

最初に助けてくれた大学院生の方の紹介で、他の日本人ともつながることができたので、生活に必要なお店を教えてもらったりして、生活基盤も整えました。
当時は知らなかったんですが、首都師範大学の寮は割ときれいなことで有名です。掃除とシーツ交換は定期的にスタッフの人がしてくれたので、快適でした。
ただ、学食はあまり美味しくなく、寮でも自炊が禁止されていたので、基本は学外で食べてました。当時は北京の物価は今ほど高くなく、安くて美味しいお店が周りに結構ありました。中華が口に合わない人だと辛いと思いますが、私は大丈夫だったので、食事には困りませんでした。北海道出身なので、やはり東北料理が一番口に合いましたね。

―中国語はどれくらいで上達しましたか?

ほぼゼロからだったので、やはりある程度使えるようになったなと感じるまでには半年かかりました。
あ、最初の方の授業で、先生に発音がきれいって褒められたんですよ。だいたい日本人って初心者だと発音に苦戦するんですが、発音の基礎だけは大学時代にできていたみたいで。スパルタだったあの先生のおかげですね。いまでも感謝しています。
半年勉強して、次の学期で中級クラスに上がりました。先生の話もわかるし、ようやく本格的に留学しているなと感じるようになりました。

留学中の課外活動

―大学にはサークルなどあったんでしょうか。

大きい大学と違って、留学生サークルとかはなかったんですが、相互学習というのがありました。同じ大学の日本語学科の子と、お互いの言葉を教え合うというものですね。でもこれがけっこう大変でした。お互い素人だから、相手の「なぜ?」に答えられない。しかも簡単な言葉で説明しなくちゃいけないので、難しかったです。でも初級の頃は本当に助かりましたね、宿題が全然わからないときなどに、教えてくれる中国人がいるというのは安心でした。
でもやっぱり、留学生寮に住んで、外国人留学生と授業を受けているだけだと、中国人と知り合う機会がほとんどないんですよね。

私はたまたま、内閣府の事業で北海道に来ていた中国人の方々が、あのときお世話になったからとよく気にかけて面倒を見てくれて。まだしゃべれないときから心配して食事や観光に連れ出してくれて、本当にありがたかったです。最初の頃に彼らがそうしてくれなかったら、ホームシックになっていたと思います。中国語が全然できず中国語学科でもない私に中国人の友人がたくさんいて、周りには不思議がられていました(笑)。
そんな感じでしばしば学外の人とも関わっていたんですが、午後の空き時間をもっと活用しようと思い、日本人が参加できる団体がないか調べました。当時は日本食レストランなどに置いてある日本語のフリーペーパーが貴重な情報源だったので、それを参考にしました。日本人と中国人が共同でやっている環境や農業について学ぶボランティア団体があり、迷わずそこに決めました。

―ご自身にぴったりな団体ですね。そこでの活動はどんなことをしたんですか?

メンバーは学生だけでなく、日本人駐在員の奥さんや、北京で働いている人などもいたので、有機農業の農園の視察や、ごみ問題のシンポジウムなど、結構ちゃんとしたことをやっていました。一番大きかったのは、内モンゴルの砂漠化地域へのスタディツアーですね。現地で緑化活動をしている日本人の団体のところへ行って、現状を学んだり、植林などをしました。

―他にはなにかやっていましたか?

フリーペーパーで、日本人の演出家が日中二ヶ国語劇をやるという記事を読み、思い切って連絡し、お手伝いさせてもらえることになりました。もともと舞台鑑賞が好きで、大学時代には友人と映像制作もしていたので、興味があったんです。チケットもぎりでもなんでもやろうと思っていたのですが、最終的に音響を担当させてもらうことができました。
このつながりで、ACG(中国語圏で用いられる、アニメ・漫画・ゲームの総称)関係の団体にお誘いいただき、日本人声優を中国に招いて行うイベントの進行台本や、ボイスドラマの脚本を書かせてもらうなどの機会ができました。この関係者の方には、今でもゲームやアニメのシナリオの翻訳などのお仕事をいただくなどお世話になっています。
せっかくお金を払って1年も中国にいられるのだから、興味のあることは何でもやってみようと思っていたので、それが今も活きていることは本当に「あのときの自分グッジョブ」という感じです(笑)。

北京には日本人が多いとはいえ、日本人コミュニティは意外と狭く、どこにチャンスが転がっているかわかりません。思いがけずすごい方につながったりもするので、アンテナは高く、フットワークは軽くしておくといいと思います。

―そうした学外での活動は、中国語の能力にも影響しましたか?

かなり影響しましたね。環境ボランティア団体のイベントでは、日本人以外の方も参加するので日中2ヶ国語で行うことが多かったです。自分の専門分野のことだったので、関係する単語はかなり勉強しました。舞台でも、私と中国人の照明係はずっと音響照明ブースにいるんですが、照明係は日本語があまりできない。それで、演出家さんの指示が伝わっていないときにフォローしたり。授業で習わない中国語を使う機会がぐっと広がり、語彙も増えましたね。

―では、1年間でかなり中国語が上達したんですね。そして、帰国。

それが、まだ帰国じゃないんです(笑)。
1年やってみて中国語もできるようになってきたし、人脈もできた。でも、中国語、私もう少しいけるな、と思ったんです。1年じゃ足りなかった。中国語学科とかから来ている子よりスタートが遅かったですしね。まだ伸びしろあるな、と。北海道に戻ったらしゃべる機会がなくなって、元の木阿弥になってしまうのも怖かったです。もう少し定着させないと、この1年が無駄になるなと。せっかくできた人脈を活かしてもっと北京でワクワクすることを続けたいという気持ちもありました。
それで両親にも相談して、留学を延長することにしました。

―2年目突入ですか!2年目も同じ大学に?

はい、次の学期で高級(上級)クラスに上がりました。授業も受けながら、課外活動も続けました。前回の舞台の出演者の方に誘われ、他の舞台を手伝ったり、環境ボランティアの関係でフリーペーパーに中国の農業や環境についての連載をさせてもらったりしました。
それと、母校の環境学部の先生から連絡があり、国際ボランティアサークルを作るんだけど、学生に海外ボランティアをさせたいから、内モンゴル研修をコーディネートしてほしいと相談されました。私は農学部だったので知らない先生だったんですが、たまたま私のことを知っている後輩が、こんな先輩がいると先生に話して興味を持っていただいたらしく。
その後輩は内閣府事業での中国人受け入れの際にボランティアに参加してくれて知り合った子だったので、ここでも内閣府事業でのつながりが役に立ちました。それで、お世話になっている内モンゴルの団体に連絡して手配などをし、母校の後輩4名をアテンドしました。自分が今まで学んだり経験してきたことを、後輩に伝えられるというのがとても楽しかったです。それまで、自信を持って人に「これが得意です」と伝えられるものってあまりなかったんですが、中国語ができるようになり、自信がつきました。

正直、2年目は課外活動をしていることが多かったですね。高級クラスになると、教科書の内容がカタい。故事とか、難しいというより、これ普段使うかな?というものが多くて。私はもっと生きた中国語をたくさん覚えたかった。今考えると、中国語を続けていく上ではそうした文語的なものも使いこなせないといけなかったので、もっとちゃんとやっておけばよかったです。でも、課外活動を重視したことで世界が広がったので、これも一つの選択だったかなと思います。
結局2年間留学して、2011年2月に帰国しました。

―ついに帰国するんですね。中国に残るという選択肢はなかったんですか?

それも考えましたが、「中国に残る」ということだけにしがみつくと、仕事の選択肢ってかなり限られるなと思ったんです。将来性があるのか疑問でした。日本人向けの日本語を使うフリーペーパーや旅行、ロケコーディネートの会社など、留学生上がりで中国に住みたい人が入りやすいところはたくさんあったと思います。でも、留学していると、中国語ができる「だけ」の人はたくさんいるんだなあと気がつきました。
私は、語学はあくまでただのツールだと思っているんです。語学ができることが大前提で、仕事などのベースはやはり語学以外の専門性。
なので、先に農業を学んでいてよかったと思いました。中国語ができることって、基本中の基本で、それは今の中国人と同じ土俵に乗ったと言えるのかな?と。理系とかの専門があってこそ語学が活きるのではないかなと感じていました。
ちょうど、国際ボランティアサークルを立ち上げた例の先生が、母校の大学院に国際環境学を専攻するコースができると教えてくださって、それならもともと取ろうと思っていた修士号を取りに大学院に行こうかなと思いました。中国の環境問題をテーマにすることも許可していただき、大学院生個人に割り当てられる研究費が多く、調査のための中国渡航もそれでまかなえることが決め手でした。それで、入試日程に合わせて2月に帰国してすぐ入試を受けて、合格後ばたばたと手続きをしました。


次回は留学からの帰国後、どのような進路に進んだのか伺います。

この続きは「理系・中国語ほぼゼロからの中国留学~帰国後の進路~(3/3)」をご覧ください!