理系・中国語ほぼゼロからの中国留学~なぜ中国留学に?~(1/3)

中国留学へのターニングポイントは人それぞれ。
中国留学経験者へのインタビューを通して、様々な留学体験と帰国後の進路・就職等をご紹介します。

今回は你会メンバーでもある、小田玲実さんのインタビューです。

小田さんの大学の専攻は理系、中国語がほとんどできないまま留学したのはなぜだったのか?どうやって勉強したのか?などに迫ります。


プロフィール

小田 玲実(こだ れみ)。北海道出身。

農学系大学卒業後、中国北京市の首都師範大学に2年間留学。帰国後は高校や企業で中国語講師をしながら、大学院で中国内モンゴルの砂漠化について研究。

現在、大学中国語非常勤講師、你会エグゼクティブアドバイザー、千葉県日中友好協会青年委員会代表、日本青年国際交流機構中国担当幹事。

中国との縁

―まず、中国に興味を持ったきっかけを教えてください。

父が仕事の関係でときどき中国に行ったり、中国人の方を家に招いたりしていたんですよ。といっても頻繁ではなく、私の記憶にあるのは数回ほどだったんですが。それでも子供の私には強烈な印象が残っていますね。当時の北海道にも外国の方はたくさん住んでたんでしょうけど、あまり身近にいなかったので、「特別な体験」だったと思います。
父が中国に行くときはいつも正露丸をスーツケースに入れていくんですが、帰国後スーツケースを開けると強烈な正露丸のニオイがするんですね。でも当時私は正露丸を飲んだことがなかったので、あれが中国のニオイだと思いこんでいました(笑)。

―では、子供の頃から中国が身近だったんですね。

はい。身近というか、生活の中に少しだけあったという感じですかね。父も中国の話をしますし、なんとなく中国に関する情報は目に留まったりしてました。

―その後もずっと中国と関わりがあったんですか?

そもそも関わりというほどのものでもなかったので、大学生になって第二外国語で中国語を履修するまで、ほとんど縁はなかったです。
ただ、中学生くらいのときに父が連れてきた中国人留学生の女性が言った言葉がずっと忘れられなくて。

―中国人留学生の方から、どんなことを言われたんですか?

私はその頃獣医師になりたかったんですけど、それを言ったら、「高い学費を払って、6年も大学に行くなら、人間のお医者さんになる方が意義があるのに、なぜ?」って。それで、なぜ獣医師になりたいのかうまく説明できなくて。自分のことなのに反論できなくて、しかも確かになあと思う自分もいて。ストレートにそんなこと聞かれたこともなかったので、ものすごいショックを受けました。
そのあとずっとそのことが頭から離れなくて。結局高校生のときによく考えて、獣医学部ではなく農学部に進学しました。祖父が牛を飼っていたので、漠然と牛の獣医さんになりたかったんですけど、私はやっぱり生産者側かなあと思って。そういう判断ができたのはその人のおかげでしたね。

―その人の言葉が人生を動かしたんですね。すごい縁ですね。それで、大学ではついに中国語を履修したんでしたね。

そうです。大学2年生になって第二外国語を選択するとき、シンプルに、ほかの言語よりはやっぱり中国語かなと思って。
あとは、当時北海道に来ている農業実習生ってほとんど中国の方で。あとあと農業分野で働くなら、中国語ができたら役に立つかな、という気持ちもありました。
それで始めてみたら、結構面白かったんですね。もともと漢字検定とか好きだったので、簡体字を覚えるのも楽しかったし、発音も難しかったんですけど、モノマネが好きでよく先生の声真似とかしてたので、同じように真似しながら覚えていく感じが苦ではなくて。
先生がすごく厳しい方で、例えば有気音(息を出して発音する音)は、クラス全員顔の前にティッシュペーパーをかざして、それが動くまでやらされたりとか。
もとは外国語といえばやっぱり英語でしょと思っていて、留学も興味があったのですが、私にはどうやら英語の才能がなかった。そこにきて、いけそうな言語を見つけてしまったので、「これだ!」と思ってすっかりハマってしまいました(笑)。

―ついにハマってしまったんですね(笑)。そこからはもうペラペラに?

それが、やっぱり理系大学だったからか選択科目の第二外国語はオマケというか、あまり重視されている感じではなくて。先生はすごくいい先生だったんですが、それほどできるようにならなかったんですよ。
その先生が放課後に中国語をもっと学びたい学生を研究室に集めて、補習みたいなことをやってくれていたんですが、会話練習するにも相手は他の日本人学生なので、あまり練習にならなくて。結局先生の中国の話を聞いたり、中国のお茶やお菓子をごちそうになったりする、中国好きの集まるお茶会みたいになってました(笑)。

先生にはっぱをかけられて、何人かでスピーチコンテストに出たこともあったんですが、他の参加者はみんな中国語学科とかで、実力が雲泥の差。エントリーしたのは朗読部門だったので、まだぜんぜん中国語がわからない中、とにかく発音を丸暗記して読み上げて乗り切ったんですが、その後審査員から中国語での質疑応答があって。ちんぷんかんぷんで、結局何も答えられなかった。先生はよく頑張ったって褒めてくれましたけど、めちゃめちゃ恥ずかしかったし、悔しかったですね。
そういう経験もあって、やっぱりもっと中国語を学びたい、中国に行ってみたいという気持ちがどんどん強くなっていました。

―では、大学生のときに留学をしようと考えられたんですか?

そうです。でも、私の母は当初中国へのイメージがあまりよくなかったので、いい顔をしませんでした。その頃にはもう父の中国出張もなくなっていたので、同行させてもらったりということもできず。当時の私にもっと勢いがあれば、父の知人でも何でも頼って行ってやる!となったんでしょうけど、さすがにそこまでではなかった(笑)。でも、お試しだとしても、家族とツアー旅行に行くというのもなんか違うと思ったんです。
それで、まずは自分の大学の、交換留学とかを扱っている部署の職員の人に相談してみたんです。そうしたら、「え?なぜ中国?途上国に何を学びに行くの?」という感じで。失礼な話ですよね。2006年当時、やっぱりまだそういうイメージが強かったんですね。中国に協定校はあるけど、どれも農業大学だから語学留学は受け入れがないだろう、中国人はたくさん留学に来るけど日本人が行くのは前例がないと言われて。あと、中国語がわからないから手続きもしてあげられないと。しまいには、農学部なんだから、学ぶなら農業先進国のアメリカやカナダに行ったほうがいい、中国語よりグローバル言語の英語を学ぶほうがいい、とまで言われて。

今考えれば、中国の大学って大学名に関わらずいろんな学科があったり、語学留学も受け入れていたりするので、可能性はあったのではないかなと思います。うちの大学に留学したあと大学の先生になった人とかにつないでくれてもよかったのにとかも思いますね。中国は人脈ありきなので、そういう先生の一声で速攻留学が決まったりしますよね。
でも、職員の人も、無知だったんでしょう。私も無知だったので、そこで引き下がってしまった。

―在籍されていた大学では、中国留学のつてがなかったわけですね。残念でしたね。

ほんとに残念でした。アメリカやカナダの大学に留学する予定の人は、単位互換もあって、休学しなくても留学できるのに、中国というだけでなんでこんなに不利なのかと。この大学の職員の中国に対しての認識がこうなら、休学などして自力で頑張って中国に留学しても、帰国後の大学生活があまり自分にとっていいものにはならないのかなと感じました。

内閣府青年国際交流事業で念願の中国へ

―では、留学は諦めてしまったんですか?

結局、在学中の留学は諦めました。でも、在学中にちょっとでも中国に関する情報を得たり、可能であれば短期でも中国に行ってみたいとは思っていました。
そんなときに、たまたま所属していたボランティア団体の職員さんが、「内閣府青年国際交流事業」のチラシをくれたんです。それは、内閣府主催の青年育成のための国際交流事業で、中国に行くプログラムもあった。しかも、中国語ができなくてもOKだった。国のプログラムならちゃんとしていて安心なのではないかと思い、すぐに両親にも相談し、応募を決めました。

―国のプログラム。なんだかすごくハードルが高そうですが。

私も思いました、こういうのってきっと、東京とか大阪の有名大学、北海道だったら北海道大学とかの人じゃないと受からないんだろうなと。でもとりあえず何でもいいから中国へのとっかかりがほしかった。ダメ元で受けた感じですね。
1次の書類選考は通って、2次試験は内閣府での面接や筆記でした。生まれてはじめて一人で飛行機に乗って、その頃はまだスマホじゃなかったので地図とか乗り換え案内とか全部事前に調べてプリントアウトして持っていって。ものすごい緊張感と高揚感でした。
試験会場に行ったら、案の定周りは洗練されてキラキラ、学生の受験生はみんな聞いたことある大学の学生で。自分の場違い感がすごかった。みんな自信に満ち溢れている人たちばかりで、しんどかったですね。

試験が終わったあと、国のプログラムなんてすごいやつ、やっぱ私には無謀すぎたな、落ちたな、と思いました。もう東京には来ないだろうと思って、刑事ドラマが大好きなので記念に警視庁を見に行って(笑)、東京の大学に進学した高校時代の友人と会って、内閣府の中に入れるなんていい経験したなあと思いながら北海道に帰りました。

―地方からだと、東京って今ほど気軽に行き来できる場所じゃないですよね。大冒険でしたね。で、結果は……?

まさかと思ったんですが、なんと合格したんです。飛び上がって喜びました。
2007年、大学3年生のときでした。私の大学では3年生からゼミが始まるんですが、私は国際NGOを研究しているゼミに入っていたので、担当教授も理解のある方で。事前の合宿型研修や実際の訪中など、大学を休まなければならないときもあったんですが、履修している授業の先生への事情説明などに力を貸してくださり、先生のゼミに入ってよかったと思いました。それに、私の大学で中国に行きたがるなんてちょっと変わった人扱いを受けていたんですが、同じゼミの同期はみんな海外に興味があって、話が合った。ようやく道がひらけてきたという思いでした。

―それはすごいですね!事前に研修もあったんですね。

まず事前に1週間ほど、東京で合宿形式の研修がありました。そこで初めて一緒に訪中する仲間と顔を合わせました。私たち中国派遣団は、団長、副団長と渉外(通訳)各2名ずつ、団員25名という人数で、ひとクラスくらいの規模感でした。自己紹介をすると、案の定みんな私でも知っている有名大学や、優秀な学部の人ばかり。ここでも場違い感があったのですが、北海道で農業を勉強しているというのが他の人にはかえって珍しかったようで、すぐに覚えてもらえました。
みんな国のプログラムに選ばれただけあって、学生でもしっかりしていて、人間ができている人ばかり。ちゃんと私みたいな者も尊重してくれる。それに、研修中はスケジュールがびっしりで、課題や決めなきゃいけないことがたくさんあったんですが、初対面どうしなのにすぐチームビルディングをしてサクサク進めていく。私は所属していたボランティア団体で代表をしていて、中学・高校と生徒会にも所属していたので、リーダーシップは取れる方だと思っていたのですが、手も足も出ず、井の中の蛙だったと思い知らされました。おいおいこれはすごいところにきてしまったぞ、と思いました。
一方で、外務省の中国専門家の方の講義を受けたりと、なかなかない経験をさせてもらえた。「国の代表青年として中国に行く」ということをちゃんと刷り込まれた感じですね。
研修終了後は各自普段の生活をしながら、研修で決まった係ごとに渡航までの準備を進めました。

―みなさんすごい方ばかりだったんですね。そしていよいよ念願の中国へ。

実際に中国に行ったのは9月です。北京、四川、青島に行きました。表敬訪問で人民大会堂に入れてもらったり、盛大な歓迎会があったり、大きな企業を視察したり、いままで経験したことのないできごとばかり。ついていくのに必死でした。中国といえば天安門広場の前をたくさんの自転車が走っている、というイメージがまだ残っていた頃だったので、翌年の北京オリンピックに向けて建設ラッシュの中国は、もうすでに大都会で、驚くばかりでした。
四川では農薬会社の社長さんの家にホームステイをしました。庭付きの一戸建て、息子は海外留学中。英語のできる秘書の方が私のお世話をしてくれました。でも私は英語嫌い。頑張ってコミュニケーションを取ろうとしましたが、深い話はできなかった。社長が郊外の工場に行くというので同乗させてもらったんですが、ちょっと進んだらあっという間に寂れた農村地帯で驚きました。狭い道を、運転手がクラクションをけたたましく連打しながら、農民をよけさせて進むんです。ちょっと怖かったし、道端に野菜がたくさん置かれていたんですが、それを轢いてもおかまいなし。それまでは公式プログラムで華やかなものばかり見せられていたので、とにかくものすごいカルチャーショックでした。でも言葉ができないから、その気持ちを伝えたり、質問することもうまくできない。言葉ができる団員は、通訳を介さなくても自分でコミュニケーションを取っていて、一歩先を行っている感じでした。もちろん募集要件に中国語は必要なかったので、できない団員もたくさんいましたが、せっかく中国に来たのに、中国語ができる人とできない人で得られたものに差があったのではないのかなと。
結局プログラムを通して、楽しかったし珍しいものもたくさん見られたと思う一方、四川の農村の風景と、中国語ができない自分、というもやもやとしたものを抱えて帰国しました。

―念願の中国だったのに、もやもやしてしまった?

そうですね。それに加えて、他の団員がやはりみんな優秀で、劣等感みたいなものも感じました。
でも、その経験のおかげで、私は自分の身の程を知ることができた。ずっと北海道にいたら、きっと変な自信ばかりつけて、それなりにこなすだけの人間になっていたと思います。
団員と話して、自分が学んでいる農業という専門分野にも自信を持てたし、彼らとまた会うときに恥ずかしくない自分になろうと思いました。
このプログラムの魅力は、中国人との交流だけではなくて、日日交流にもあると思っています。団員は日本全国から、学生も社会人も、さまざまな専門分野の人が集まります。こんなに多様な人たちと、合宿研修から中国滞在中ずっと寝食をともにして、ぶつかったりもして絆をつくるなんて、他にあまりないですよね。彼らとは今でも定期的に会っています。

九寨溝にて地元政府から歓迎を受ける。政府事業なので各地で盛大に歓迎されたのも貴重な経験

―では、結果的に大きなプラスの影響があったんですね。

はい。それに、この事業は派遣されて終わりではなく、事後活動といって、内閣府事業全体のOBが集まった団体で社会貢献活動などをすることになっています。その活動のひとつで、内閣府の招へいにより日本に来る外国青年のアテンドなどをするというものがあります。
私が中国に行った翌年、偶然にも内閣府事業で招へいされた中国青年代表団の訪問地のひとつが北海道となり、私はOB団体のメンバーとして、プログラム作成から携わらせていただくことができました。またしても中国とつながる機会があり、本当に幸運でした。
彼らはみな明るく堂々としていて、魅力的な人ばかり。このプログラムを運営する中で、ボランティアで参加してくれた中国留学経験のある大学生の話を聞くこともできて、やっぱり中国に留学に行こう、と決心することができました。


いよいよ中国留学の輪郭が見えてきましたね。

この続きは「理系・中国語ほぼゼロからの中国留学~いざ留学へ~(2/3)」をご覧ください!